はじめまして。作家・ライターの髙井ホアン、27歳です。
名前で気づいた方もおられるかもしれませんが、私はいわゆるハーフで、母親が南米出身です。
私は2016年頃から、ライター以前のいわば「物書き」として活動を始め、2019年、24歳の時に『戦前不敬発言大全』『戦前反戦発言大全』を出版。本格的に作家・ライターの肩書を用いるようになりました。ライターとして、現在は近代史を扱うことが多いです。
私の作家・ライターとしての特徴は「24歳で2巻1200ページの著書を出した」になるでしょうか。
もちろん小説家や漫画家ではもっと若くしてデビューする方は多いですし、学術的にも在学中から自身の研究について盛んに社会に問うている方もいます。そもそも出版やライティングに年齢を問うのはおかしなことでもあります。
それでも、この経歴は注目されてしまうことが多いようです。私もそれに感謝したり、また評価に助けられなかった訳ではありません。しかし、自慢がましく聞こえるかもしれませんが、この経歴は重荷ともなっています。出自だけでなく、社会的にも明らかに自分が歩んでいる道はイレギュラーであると、日々自覚します。それでもライティングを続けていますし、続けていきたいと思っています。
今回は、著書の内容ではなく、ライターになった経緯などを振り返っていきます。
「庶民や社会の周縁」に興味を持つ
私は、小さいころからハーフとして、さまざまな風景を見てきました。いろいろな言葉が飛び交う環境、外国人の集まる教会、群馬県のブラジル人街など……。つまり、日本の中にあって日本と異なる世界、境界、あるいは文化が衝突して後に交じり合う場所で過ごすことが多かったのです。
また、毎年夏に父の実家がある東北地方に帰省した時に祖父母から話を聞く機会があり、戦時中のことはよく聞かされていました。祖父は学生の後に海軍航空隊の訓練生、祖母は国民学校(現在でいう小学校)児童として戦時下を過ごしており、それぞれの立場から話を聞くことになりました。
離れているように見えるこれらの体験が、物書きとしての原点につながっていきます。歴史の表に出ない庶民の、あるいは周縁(にさせられた)の人々の光景について、興味を持つようになりました。
同時に、ここでは詳しく触れませんが、ハーフとしての人生体験もあり、中学から高校時代には反骨精神を持って社会に痕跡を残した人に興味を持つようにもなります。
また、「戦前の庶民も抵抗のための投書や落書きを行っていたらしい」ということを知ったのもこの頃です。
過去の人々の声を「TwitterのBot」化
普通の人なら、歴史上の「立派な人」を尊敬したり、興味を持ったりするのでしょう。しかし、私の場合は興味を持った人物の一人が、有名なドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』に出演した元日本兵の奥崎謙三でした。
元日本兵として、戦友の銃殺事件や人肉食事件を追い、昔の上官を問い詰めるという映画のショッキングな部分にももちろん惹かれました。しかし同時にこのような人間を生んだ戦前の社会と、彼を生かした戦後の社会について考えさせられるなど、複雑な経験をします。そして高校生活末期、Twitterを始めたばかりの私が思いついたのは、「奥崎謙三をTwitterのBotにしてしまうこと」でした。
Botを制作した理由は、SNSという現代のメディア上で、今は亡き過去の人々の声を蘇らせることに面白みを感じただけでなく、何らかの意義もあると考えていたから。普通ならわざわざ本や映画などに接さないと知られないような出来事も、Botとして拡散すると多くの人に興味を持ってもらえます。
こうして奥崎謙三をBotに仕立て上げ(現在も稼働中)、それなりの反響を得た私は、他にもBotを作りたいと思うようになりました。
そして、次にBotにしたのは、戦前の庶民の反骨的な発言でした。
ただ国に従うままだったような印象を受ける戦前の人々ですが、実際には少なからず国・軍や天皇に抵抗し、さらに抵抗の内容には面白いものがあると気付いていました。戦前の落書きはさながらSNSのようですが、ぜひそれを現代のSNSに蘇らせたい! と思いました。
この時点では戦前の発言をそれほど網羅していた訳ではなく、面白半分・真面目半分に、試行錯誤しつつ、いくつか集めていた有名な発言などを登録していました。
すると、奥崎謙三Botよりも更に速いペースでフォロワーなどが付くようになりました。戦前の庶民と現代の庶民がSNS上で出会う、出会ってしまう機会ができたのです。さまざまな感想や助言が寄せられ、情報提供なども受けていくうちに、庶民の言動を取り締まっていた特高警察や憲兵の内実に迫って調べていくことにもつながりました。
大学生に届いた突然の出版依頼
2014年10月。大学二年生の秋、突然私に転機が訪れます。当時社会評論社に勤めていた名物編集者のハマザキカクさんから、「戦前の不敬・反戦発言Botを本にしないか」と連絡を受けたのです。
最初連絡を受けた時、私は文面を読み損ねて、「ハマザキカクさんが本を書くのに私が協力する」という返信をしてしまったくらいでした。この時、私は読者としての経験しかありませんでした。
「本を出すとはどういう事だろうか?」。そんな事を考えながらも、もしこの記録と、自分の伝えたいことのために何か出来るならと、数日中にハマザキカクさんに会いに行き、意気投合し、この時から拙著に至る長い道のりが始まりました。
しかし、20歳の男が、TwitterのBotを背景に本を書き始めるのは、普通の出版で経る過程とは大分異なる形であることは分かっていました。
当初は嬉しさや楽しさより不安が勝ることも。本を在学中に出したりして(実際は更に時間がかかりましたが)、就職なり普通の生活が出来るものなのだろうか? と私にしては保守的な疑問が出ることもありました。が、そもそも生まれからして「普通」ではなかったし、これからも「普通」ではないだろうという確信が勝り、作業は始まります。
「本づくり」に感じた責任
Botにはすでにそれなりの数の発言を登録し発信させていましたが、本にするにはさらに網羅的に、そして初めて読む人でも分かるような内容にしなければなりません。発言に現れる一つ一つの用語や背景も調べなければならない。
Botは興味本位でも運営は(まあまあ)できますが、市販の本には責任が伴います。そのような差を埋め、Botの発展はもとよりこれまで以上に正確なデータを取るため、私の図書館通いが始まりました。国立国会図書館、国立公文書館、東京都立図書館、埼玉県立図書館(しかし調べ始めていきなり閉館)、関東の各地の市町村立図書館、資料館……。もちろん書籍も各地の書店や古書店で購入しました。
そして、Bot一つや二つで分かった気になっていた自分の知識の浅さに気付かされることばかりです(今もですが)。
データベース型の本を作る際に問題になるのは、「どこまで網羅するか」ということです。何を・どの程度・どのように・誰に向けて紹介するのか……。それによって、当然ながら本の性格は変わってきます。ここは、編集者であるハマザキカクさんとメールでやり取りをする中で、徐々に方針を固めていきました。
Botをやっている上で「今までこんなこと知らなかった」という反応が多かったこともあり、間口は広く取りたいと考えていました。同時に、戦前の人々の声を漏らさず紹介したいとも思いました。幸い、特高月報や憲兵隊記録という重要な資料がすでにあるので、どこまで、ということはほぼ問題になりませんでした。
本当の問題は、その分量が膨大な事です。特高月報やそれに連なる資料(同時代の歴史書、新聞、被害者側の本、回顧録、関連する法令……)などを流し読みしてどこからどこまでを扱うか。終わりまで一度眺めた時は、果てがないように感じました。
様々な調査の中で改めて気付かされることも山ほどありました。「あんな有名人がこんな場所で」「こんな場所でこんな事が」「あんな場所でこんな行動を」ということはたくさんあります。さらに、資料の来歴にもさまざまなドラマがあります。特高月報はどのようにして再び見つかったのか? 特高警察は戦後どうなったのか? 疑問は疑問を呼び、それを整理しながら原稿を組み立てていきます。
学生生活で「学び」を得る
ここで話は私の実生活に戻ります。私は大学二年生の秋から本を執筆すると同時に、当然ながら大学生としての生活も送っていました。私は西洋史、特にカリブ史を専門に学んでおり、ゼミ生としての研究も同時に行わなければなりませんでした(というかこちらが学生の本分ですが……)。
私が専門・卒論ゼミで一貫して研究したことは、ざっくり言えばカリブ海における砂糖プランテーション(大規模農業)と奴隷貿易の歴史。さらに突っ込んだところでは、「19世紀初頭ジャマイカのある奴隷農園の奴隷の増減を調べ続ける」という内容です。
教授の研究に沿った内容ではありましたが、奴隷台帳の記録から当時の人々の暮らしを浮かび上がらせる試みは、とても興味深いものでした。また、ある図書館で見つけたフランスの歴史家であるエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリの『モンタイユー:ピレネーの村 1294~1324』という書籍に惹かれることもありました。
中世ヨーロッパの庶民の生々しい暮らしを、カタリ派(異端とされたキリスト教の一派)に対する異端審問の記録から明らかにしようとする、アナール学派(政治や戦争史より、民衆や社会研究を重視するフランス近現代歴史学の一派)の名著です。そういった大学での研究や読書は、私の執筆作業にもフィードバックされることになりました(それに、特高月報は日本語だし項目立てているので、奴隷台帳や中世の異端審問の記録よりは遥かに読みやすかった!)。
資料をデジタル化したり、さらに自分で簡単なCSV登録ソフト「内務省くん」を開発し(なんて名前だ)、項目立てられている部分のデータベース化効率を上げ、それぞれをタイプ立てて分析することなども行いました。
全てが書籍に生かされた訳ではありませんが、膨大な内容が徐々に自分の手に収まるようになってきました。
しかし大学卒業後の実生活は逆に環境が悪くなり、新卒で入った会社も辞めることになりました。「仕事を辞め、『社会的に無価値』な人間となっても、とにかくこの本だけは出してみよう」という気持ちだけが、この時期の私を支えていました。考えてみれば、拙著に登場する庶民は大概「不自由を勝手に強いられる時に自由に生きた」(ために捕まった)人々であることにも一種の勇気を得ていました。
また、もともと創作に興味があり、2015年には「破滅派」という文学同人に参加するなどの転機もありました。文章を書く・伝えるということについて考え、合評会で他人と競うなどの経験は、拙著のコラムなどを執筆する際に役立ったといえます。ライターなら誰でも、自分の文章の基礎をどこかで客観視する機会が必要になると思いますが、私は「破滅派」で最初にそれを経験しました。
出版直前に味わった数々の感動
2018年後半に入り、調査と執筆に専念していた頃、世間では天皇の生前退位や改元が話題となっていました。拙著のテーマと、とても密接な話題です。
いよいよ執筆も佳境に入って編集者との連絡も密になり、本のレイアウトや2巻構成にする事も決まった頃でしたが、ここに来て「出版を来年の改元に合わせよう」という話が出てきました。「時代の変わり目」に、問題作をぶつけに行く! はっきりとしたゴールが設定され、身が引き締まると同時に、これまで自分のペースでやってきた作業を、ラストスパートに持っていくことにもなりました。
PDFのやりとりを頻繁に交わし、修正、コメント、掲載する画像もまとめていきます。それまでの自分の作業の質も試される段階です。過去に書いたコラムに納得いかない部分が現れ、書き直すこともありました。
そして、ついに明確な発売日が「2019年5月25日」に決まりました。
これまで私は、Botのフォロワーはもちろんのこと、家族や友人、知人にも企画のことは話さずに執筆してきました。2019年4月、いよいよ告知が始まり、Botのフォロワーの方をはじめ、多くの方に反応をいただきました。
個人的に、「Botの中の人」としての露出度を考えてこなかったので、どのように振舞うか、直前に考えさせられることになりました。これまで「Juan.B」という思い入れのあるハンドルネームで活動してきましたが(現在も使用)、著者名は個人名を出すことにしました(当初の心配をよそに、後に私はイベントに幾度となく出演していくことになるのですが……)。
5月22日、私はハマザキカクさんと会い、出来上がった2巻、計1200ページの本を受けとりました。全てが「私個人」の内容では無いとはいえ、過去の人々に背中を押してもらいつつ出来上がった、四年半の厚みがそこにはありました。
しかし、まだまだすべきことはたくさんあります。掌からじんじんと来るものを感じながら、本の中身を確かめ、振り返りや今後の話をハマザキカクさんと行いました。その後、有名なミニコミ系書店の「模索舎」に挨拶に行き、店主に献本をしました。はじめて他の人に本を手渡した時、先程の感動とは別の、これから文章を他人に読まれるのだという実感がわいてきました。
出版を経て、作家・ライターとして歩み始める
出版後、私はいくつかのインタビューに始まり、イベントへの出演、いくつかの媒体から依頼を受けての執筆をするようになります。しかしそれは一冊の本を書くのとはまた別の約束の世界だと気づく事にもなります。
多くの人は私が既に大著を出し、文章に慣れている人だと思って接してくれますが、本を出したとしても「ライター」としてはまだまだ駆け出しです。スタート地点は非常に恵まれましたが、そこからは自分の力で走らなければなりません。今は、自分の本を多くの人に読んでもらうためには、文章による宣伝だけでは不十分です。
出版社のパブリブ社から本を出している方は、イベントなどにも積極的に出演されるようになる・あるいは元々そうだった方が多いですが、私も拙著に関連し(そして次第に逸脱するのですが)イベントに出演するようになりました。
幸いコロナ前だったこともあり、私は出来る限り多くの人と会うようにしました。(行儀良くしている限り)献本されたりそのために会いに来られて嬉しくない人はいないと思います。ですが、引き続き書く事をおろそかにも出来ません。私は一度書くことに縁を持った身として、いよいよ名刺に「作家・ライター」との肩書を刻み生きていくことになります。
1200ページ数十万文字の本を数年かけて書くのと、4000文字の記事を一ヶ月・一週間・あるいは一日で書く事の大変さは、それぞれ違いは大いにありながらも、質としてそう変わらないのではないかと思います。
何が人に求められているのか、短時間で見抜いてまとめ、読みやすい記事をコンスタントに提供するのは、かつての1200ページという量にある意味「甘え」ていた私にとって、なかなか大変な仕事でした。ミスを犯したこともあります。
しかし同時に、マイノリティな背景を持つ者として、自分の経験や考えを他人に伝えていくこの「ライター」という技能は、とても重要なものでもあります。「本を出してからライターになった」というある意味逆転した・そう多くはない経歴を生かしつつ、これからもいろいろな記事を執筆していければと思っています。
出版を目指すためには、「多くの人が触れやすい形」での情報発信が重要
まだ経験の浅い身ですが、本の出版を目指す人に伝えたいのは、
「是非知っていることや経験を、触れやすい形で提供してみてほしい」ということ。ライターというとサイト・ブログでの執筆ばかりを思い浮かべがちで、確かに王道ではありますが、全ての人の入り口ではないとも思います。
私の場合は2013年に開設したTwitterのBotから全てが始まりましたが、2021年の今ならさらに多くのプラットフォームが存在し、世界に開かれています。ご自分の分野に沿って、人々の興味を引き、知ってもらう手段について、試行錯誤する経験は貴重だと思います。イベントなどの機会に様々な人々と出会ったりするのも良いでしょう。
100%の成功を目指さなくても、あるいは思っていたことの10%の結果しかなくとも、将来別の成果が出た時に経験が役立ち使い道が現れるでしょう(愚直に具体的な事例を言えば……最初に作った奥崎謙三Botは本の宣伝に使えました)。
また、現状への疑問も持ち続けつつ、遊びの精神を持つことも役に立つと思います。私がBotを始めた理由もそうでしたし、多くの人が関心を持ってくれたのもやはりそんな点をそれぞれ見出したからではないかと思っています(ドシドシ天皇とか……)。
※注:「ドシドシ天皇」とは、1940年に警視庁に寄せられた不敬な投書の一節「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」。『戦前不敬発言大全』に収録され、露骨な不敬発言ながらキャッチーな雰囲気から注目を浴びた
是非、拙著もお読みいただければ幸いです。また、イベントなどにも出演しているので、読者の方々と会場でお会いできれば、是非お話したいと思います。どうもありがとうございました。